
広島皆実高校は独特な高校なんです。普通科が一番人数が多い、次に看護科という看護師さんになる人たちが行く専門のコースがあり、もう一個体育科という、要するにスポーツに特化した学科です。これは全国でも極めて少ないです。オリンピック選手とか Jリーガーとか、あらゆる分野、 野球以外の分野で著名なスポーツ選手を出すような学科で、著名なスポーツ選手を出すような学校です。オリンピック選手とかも出ていて、為末大さんが 2 つ上の先輩です。Jリーガーも山ほどいますし、サッカーは日本一になったことがあります。バスケは日本一になったことがなくて、ベスト 8 が最高です。スポーツに力を入れているので、スポーツがとても強く有名です。サッカーもバスケも陸上もずっと強いです。広島県中でスポーツで良いところに行きたいとなったらみんな広島皆実を目 指します。そういう意味で特殊な学校でした。やはり体育科というのでスポーツは強いので、テレビとかニュースとかでもよく出ますから。全国大会とかサッカーとか、テレビで広島皆実のユニフォームもよく出ます。メダリストが出るくらい有名人が出ているので。そういった意味でも名前は、スポーツというイメージが強いでしょうね。

高校生活もいじめは続いていました。今度は先輩ではなくクラスメイトなのですが。多分、僕の性格が日本社会向きではないのだと思います。物事をはっきり言うし、引かないんです。空気読んで引くとかあまり得意ではないので。大人になって多少学んできましたけど、学生の頃はそういうのも意識したことがなくて。物事をはっきり言ってしまいますし、間違っている人がいても、間違ってい る人がいるなりの行動の仕方、空気を読んだ発言の仕方があると思いますが、それができませんでした。決して相手が悪いというつもりではなく、そこまではっきりした言動を取っていたら、合わない人が出てくるだろうなという。高校生は、小中とは違って人格形成が進んでいるので、自己主 張する人が多いんですね。自己主張がぶつかり合うときに対立が起こったり波風が立ったりしますので。この場合においては陰湿ないじめというわけではなく、意見の不一致によって、波が合わない人たちがたくさんいたと。その結果として、一部の人はいじめに走る人がいました。でも、その時点では勝ちだと思っていましたけどね。いじめる側は負けだなと思ったので。これも同じで、バスケに打ち込む先があったので、どちらでもいいなという。これは言ったらいけませんけど、どうせ授業では 寝ているので。体育科なので、1 日に体育が 2 時間とか、多いときは 3 時間あったりします。6 時 限中 2 時限は必ず体育でした。もちろん朝練を 2 時間とかやって、6 時限中 2 時間から 3 時 間は体育があって、午後連も 3~4 時間やって帰ります。これを 1 日やるのではなくて毎日繰り 返すんです。ひたすら毎日です。土日はもっと長いですからね。朝 10 時から来て夜 5 時までとか ですから。土日になったら休みみたいなのはないです。
体育科で、アスリートを育てるという学科ですから。いくら元気な高校生でも体力がもたないんです。 だから正直寝るしかないです。あんまりこれは言えませんが、授業はどうせ寝ているので、クラスの中で何が起こっているかあまり関心がありませんでした。いじめをしている奴がいるなという認識はありましたけど、そちらに気を向ける時間も体力もないので、事実があるということだけ認識する時間は流れていました。逆に僕は高校生になっても英会話を続けていて、唯一続いている習い事が英会話でした。決してペラペラは話せません。行って、集団で話すだけですので。ものすごく英会話が上達したということは、ちょっとは上達していますけど、ペラペラなところまでではないのですが、楽 しく続けられていました。その理由が、英会話に行ってよかったと思うのが、大人の友達が多かったです。僕が英会話スクールに 16、17、18 で行っていまして、ブリタニカというところが、名前変わってやっていましたけど、そこで大学生とか大人の人が多くて、高校生は僕だけでした。そういう人たちと話をしたり、これも言えないんですけど、大人の人たちと高校生のときお酒飲んでいました。年上の人たちを話をするのが当たり前の環境にずっといましたので、その人たちと比べると学校で交わされている会話が幼稚すぎて。「芸術の授業、マジたいぎいわ。死にたいわ」とか。「たいぎい」って広島弁で「辛い」という意味ですけど。「もう人生終わるわ」とか言っているんです。絶対終わるわけないじゃん、と思っていたんですけど。そんなくだらない悩みなんだ、高校生は、って僕も高校生ながらに思っていました。ある意味では変に言うと冷めているし、一般的によくいる高校生の感じではありませんでした。
勉強はほぼせず、寝ていたということです。なので偏差値が 31 とか 32 とかでした。先生にも言われないです、みんなそうだったので。成績は統計上、それより下が出ないという数字まで落ちるわけです。名前書いて終わりとか、そういう人たちもいるので。僕はさすがにもう少し書きましたけど、でも空欄が多いわけです。英語と数学は多 少、偏差値は平均より下回っていますけど、少しは上で、あとは全部空欄に近いです。何を学んだかさえ覚えていません。答えがわからないとかではなく、何をやったかがわからないので。それは底辺まで落ちるわけです。
テストはもちろんあります。だからみんな空欄です。みんなは言い過ぎですね。ちゃんとやっている人はもちろんいます。 でも多くの人があまり真剣に授業を受けていないので。さすがに体育科といえどもそれはまずいのではないかと、先生の中で会議があったらしいです。ちゃんと授業を受けましょう、と。今でいう働き方改革ではないですけど、高校生活改革が一回起こって、それからみんなビシッとやり始めました。 さすがにこれではまずいとなったのでしょうね。先生も一生懸命になって、僕たちも起きてないと怒られるからというので、多少上がって、最後は 39 で終わりました。31、32 まで落ちましたが 39 ま では復活しました。勉強はそんな感じでした。
高校生活のときに一番思い出が強いのが、怪我をしたことです。高校生活はバスケットがほとんどですが、朝 4 時とか 5 時から練習をやっていました。一人のときもあるし、何人か来ることもありま したが。中学校とは違って高校はセキュリティがしっかりしているので門は閉まっていて、体育館も施錠されています。ですので、本来は入れないんです。そもそも学校自体に入れません。結構な高さがある塀をよじ登って、早い話が不法侵入です。体育館の鍵もしまっているので、体育館の 壁を 1 個くり抜いていて…、これも多分違法なんですが。そこに板を置いておいて、見た目はちゃんと問題ないように見えますけど、そこをコンコン押すと穴が開くという仕掛けを作っておいて、そこから侵入して練習していました。訴えられはしないでしょうけど、訴えられたら違法でしょうね。そういう不法行為を日々繰り返しながら、朝 4 時 5 時から練習していました。怪我の話はちゃんと、そこにたどり着くのですが。最終的に高校 3 年間終わるときに先生に言われました。「侵入してやっていたのは、実は知ってたよ」と言われました。でもそれを先生の判断として、どうしようか考えたけど、問題がある行為ではあるけど、とりあえず見過ごすことにしたと最後には言われました。バレてたんだというのは、最後先生に感謝でしたけど、それくらい練習をしていました。やはり体育科です から、日々体育をずっと続けていくというのもあるので身体を酷使する環境が続くわけです。そうするとどうしても身体に負担が来て、僕がやった怪我は疲労複雑骨折です。よくマラソン選手がなる怪我です。恥骨結合炎という、「股関節の骨が複雑骨折してないですよ。酷使しすぎです。このまま行ったら歩けなくなるくらいひどいですよ」と言われました。ずっと病院に通い続けていましたし、 高校 2 年生のときから丸々1 年間は何もできませんでした。ひたすら他の選手が練習しているの を見てサポートして、選手ではなくてマネージャーになるんじゃないか、くらいの。修学旅行もみんな はスキーに行きましたが、僕は行けませんでした。でもいじめている奴がいるので、行きたいとは思っていなくて、ラッキーくらいに思っていましたけど。「その分お金返して」と学校に言って。積み立てているので、修学旅行に行かないので、お金返してもらいました。それで何したか覚えていないのです けど。
そこで人生を考えました。小学校からバスケのことしか考えていなくて勉強もほとんどしていませんから、勉強で大学に行けるような状態ではないわけです。それで身体が動かなくなったので、これでどうするの?何もできないじゃん、生意気に中卒でいいです、高卒でいいです、みたいなことを言っている状態では、このときになくなりました。どうにかしないとなとは思いました。 さすがに身体が動かない時間は体力があるので、そこで勉強を少し始めました。

バスケ部は今では多分問題になってしまいますけど、肉体派でした。先輩が後輩を殴るとか、先生が生徒を 殴るとか。これも文字化できないでしょうけど。そういう意味では昔ながらの体質でした。憎しみが あって殴るとかそういうことではなくて、人のために殴るとか、そういうのは見ていてわかったので。今の時代はそれも問題になりますけど、精神から肉体から鍛え上げるみたいな体質のところでした。 強かったので、あちこち練習試合しに遠征に日本中に行きました。それは楽しかったですよ。チームメイトといろんな都道府県に行って。大体行くときは男女で行くんです。どちらも全国大会に出る くらいのチームなので。男子だけ行くとか女子だけ行くということはあまりなくて、行くなら男女で行 くことが多かったです。全国大会も中国地方大会も、男女とも出ているので。練習試合でも本 番の試合でも、男女とも一緒に動くわけです。となると、多感な時期ですから、そういうのはみんな興味あります。そういうのは楽しかったです。
部員は強豪校の割には少ないです。というのが、バスケ部の体育科で取る人数って 5~6 人なん です。1 年生 5~6 人、2 年生 5~6 人、3 年生 5~6 人なので、全部で 15 人くらいしかいません。体育科でそれで、普通科からも入ってきます。普通科から 10 人 15 人入ってきたとしても 2~30 人しかいません。強豪高校にしてはだいぶ小さいと思います。
学校以外では英会話ばかりでしたね。英会話は週 1 でした。広島県の本通商店街にあったんですけど、飲み屋街でもあるのでそのまま飲みに行くとか、一緒にスノボ行くとか、キャンプに行くとかやっていました。 その時間が一番楽しかったですね。ほとんどの時間だから。僕、クラスメイトと遊ぶとかはほとんどありませんでした。練習とか学校以外の時間、寝ている時間とか食事している時間を除いたら 9 割 方、英会話のメンバーと遊んでいました。その時の英会話の実力は、そのあとで大学からアメリカに行くことになるんですけど、そのとき一番最初に「Do you have a dictionary?」って言われました。通じないので、辞書出してと言われたんです。辞 書で引いて、「これこれ」とホストファミリーの人が言おうとしているのだと思うんですけど、「Do you have a dictionary?」が聞こえなかったので、そこまではいっていないです。だから、そんなにペラ ペラ…。今ならわかりますけど、その当時はわかりませんでした。もう少しゆっくり話してくれればいいのにと思うんですけどね。「Do,you,have,a,dictionary?」って言われたらわかります。それは 向こうに容赦がなかったですね。ただ、自分の意見をどうにか伝えるという、聞くほうは聞いている 量が少ないので、そんなに聞き取りはうまくできませんでしたけど、話すのは下手なりに、文法間 違いもたくさんありながらかもしれませんけど、意思表示をしようというのは強かったです。もともと自分の意見を言うのは、何でも言ってしまう人だったので、思ったことを言わずに収めておくというのがあまり気持ちよくなくて。どうにか言いたいことは伝えようとしていました。話すのはもっと話してい たと思います。ただ、発音は悪かったでしょうし、文法もぐちゃぐちゃだったと思いますけどね。
怪我をしてから少し勉強を始めて、成績でいうと良かったのは英語ですね。英会話でちゃんとやっているので。テストの点数は悪かったですけど、リスニングは人よりできましたので英語は比較的良かったです。数学は、僕が良かったのではなくて周りが悪かったので、そんなに悪くありませんでした。国語は比較的良かったです。怪我で休んでいるときに何していたかというと、夏目漱石とか小説ばかり読んでいました。だから文学に触れる時間が局所的に多くなっていました。文字を読む、漢字を読む、それを元にいろいろ考えたりすることもやっていましたので。国語の要素はいろいろあったと思います。もともと自分の意見を 言うのが好きなので、作文も好きでしたし。国語は良かったので、その 3 つくらいですね。まあまあ見れるというのは。でも言っているほど成績は良くはないですよ。マシだったというだけで。
怪我をしたときにいろいろ考えていて、やはり大学には行ったほうがいいというのは思っていました。 ただ、勉強ではあまり行けないと。偏差値 30 いくつで選択肢はそんなにないというのはわかってい ました。だから、どうにかバスケットで推薦が来るか。でもやはり一番はアメリカかなと思っていました。 アメリカ行けないのだったらどこかの推薦にかかればいいなと思っていたのですが。ただ、怪我をして いたので、推薦云々もあまり、試合に出ていないので。最終的には怪我をちゃんと克服して試合 には出るようになるんですけど。最終的にはそうなりますが、ただ、最後の 3 年生の冬、全国大会 に出られませんでした。悔しかったので今でもそれは夢に見ますけど。全国大会に出られなかったので、全国の大学からスカウトが来るというチャンスを失っているわけです。スポーツ推薦もあまり見 込みはないだろうというのもある程度わかっていたので、やはり海外だなというのは思っていて。また 親に言いましたね。「やっぱり留学したいです」と言って。
そのときには全国大会でもバリバリ出ていたので、1 年間怪我でできなかった時期がありましたけど、 その前後ではかなり試合に出ていたので。チームに貢献して認められているというのもあったので、 それは親も誇らしいところがあったみたいです。怪我を克服して 3 年間頑張り続けたというのも認 めてくれているところがあって、「そこまで言い続けるんだったら本当に行きたいんだね」ということで、 大学のときには反対はされませんでした。
海外に行ったのは、もともと僕の中では興味としてはありました。ただバスケがしたい一心でしたけど。 『スラムダンク』で沢北選手が、「俺は卒業したらアメリカに行く」というセリフが出てくるんです。そう したら主人公の一人である流川選手も、「お前を倒して俺もアメリカに行くぞ」という、バチバチにやり合うシーンがあるんですけど、バスケっ子ですから、そういうのを見て触発されて、俺もアメリカに行きたいとなりました。それで、どうしてもアメリカにということを思っていましたし、言いましたね。
成績がよくないので、いい大学に直接行くことは無理だということで。こういうやり方がある、2 年制 大学に入って編入するやり方があるということを調べているうちに知って、それをサポートしてくれる 業者があるんです。これはラッキーだったんですけど、続けている英会話のところでそういうサポートも やっているということで、そこにサポートをお願いしました。英会話には授業料、結構親が払っていますので、その払っているお金があるので留学のサポートやってあげるよ、ということでやってくれました。
そう決めてからは、どこまでやっていいかもわからないので、適当に決めました。とりあえず僕 はアメリカに行けたらよかったので。その先のことは考えてもしょうがないし、どうにかなるだろうくらい の感じでした。アメリカ行きが許可してもらえて、行く所の段取りがついて、もう楽しみしかありませんでした。ウキウキして、高校の卒業式も出ませんでした。先のことしか見ていなくて、みんなシクシ ク言いながら、「僕たち私たちは」とかも興味がなかったので。友達も基本的には外にいますので。 もちろんクラスメイトの中にも仲良い人がいて名残惜しいとかはありますけど、卒業式終わって会えばいいので、終わってから会いました。中学生も卒業式出ませんでした。高校も出ませんでした。 あまり学校に執着していなかったので。